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横内勝司作品展 「時を超えて」

江戸末期、長崎に伝わった写真技術は、明治中期には薄いガラス板に感光材を塗布した乾板が販売されたことにより、ごく一部のアマチュア写真家に広がった。その後、ブローニーやライカなどのロールフィルム機が登場すると一般にも普及し始め、同時に「スナップ写真」という概念もこの頃に生まれたようだ。とはいえ、外国製のカメラはとても高価であり、庶民にとって写真は写真館で撮るのがまだまだ一般的であった。それが広く大衆にも普及し、本格的な写真時代が到来するのはずっと後の戦後になってからのことである。その、まさに日本の写真黎明期ともいえる明治〜大正〜昭和初期を生きた一人の写真家がここ松本にいた。

 

横内勝司(1902~1936)プロフィール

 

松本の農家に8人兄弟の長男として生まれ、高等小学校卒業後に家業を継ぐ。

20代でカメラを手に入れ昭和11年に33年の短い生涯を閉じるまでのわずかな期間に乾板式カメラで撮影された昭和初期の信州松本。雄大なアルプスの山々や、当時としてはごくありふれた農村の日常、そしてそこに遊ぶ子供たちを捉えた躍動感溢れる作品の数々はまさに奇跡と言える。だが、あまりに早すぎた死とその後この国が辿った歴史の波に呑み込まれ、彼の存在とその作品を知る者は地元松本でさえ殆どいない。

 

横内勝司との出逢い

 

横内勝司というその名前を、これまで一度も聞いたことがなかった。

1902年、長野県松本の農家の長男として生まれ、高等小学校卒業後に家業を継いだ彼は、20代でカメラを手にしてから、33才でその短い生涯を閉じるまでの僅かな期間に、奇跡とも言える数々のガラス乾板による作品を残した。それは肖像や集合写真にとどまらず、山岳写真やスナップなど、幅広く多岐に及ぶ。子供たちの生き生きとした日常を捉えたその瞬間が、当時の蛇腹式カメラとガラス乾板で撮影されたことを考えると、その撮影技術の高さは驚くばかりだが、それ以上の驚きは、被写体を見つめる確かな視線と、その優しさにある。近代化と軍国主義への道を突き進む戦前の日本に於いて、当時としてはごくありふれた農村の暮らしや、そこに遊ぶ子供たちなど、当たり前の日常に価値を見出し、レンズを向けた独自の感性。そして、光と影を巧みに捉えた天才的な感覚は、テレビなどの映像はもちろんのこと、スナップ写真の概念さえなかったと思われる当時の松本で、なぜこれほどのイメージを創り得たのかと、いまだに信じられない思いだ。

 

その奇跡との出逢いは2014年5月に松本市内のギャラリーで開催された僕の作品展でのことだった。

勝司氏の長男、横内祐一郎氏が「オレの親父も写真が好きだったんだ。親父の写真、見ておくれ!」と、一冊のファイルを持って現れた。それは古いアルバムの写真を、さらにカメラで複写した簡易なものだったが、そのファイルを開き始めてすぐに、これまでどんな写真からも感じたことのない衝撃を受けた。祐一郎氏が、写真の中の着物姿の少年を指さして「これがオレだ」と言ったとき、思わず隣にいた87才になるという老人の顔と、写真の少年を交互に見つめた。紛れもなく今ここにいる老人の幼少期の写真だった。まったく信じられない思いだった。後日、横内氏の自宅を訪ね、アルバムと原盤のガラス乾板を拝見した。とても80年以上も前に撮影されたとは思えない躍動感あふれる写真の数々に、ただ驚嘆するばかりだった。

 

これほどの写真家が昭和初期に存在した。しかし、当時「アマチュア写真界の鬼才」とも評されたその名を、その後の写真史に見つけることは出来ない。なぜこれほどの写真家が…? 33才の若さで逝ってしまったことも理由のひとつだ。さらに、国際社会から孤立し、急速に軍国化していく当時の社会情勢も無関係ではなかっただろう。そして迎えた敗戦。戦後の混乱からの復興と、その後の高度経済成長期へと突き進むこの国には、彼が見つめたノスタルジックな過去など必要なかったのかもしれない。今日までその存在が語られることはなかった。

 

没後、約70年を経過した2005年、横内勝司の名に再びスポットが当たることになる。

自宅の屋根裏から大量のガラス乾板が孫の横内照治氏により発見されたことが地元のタウン誌で紹介され、写真が小さなコラムに連載された。しかしそれは、昭和初期の松本の風景や人々の暮らしを記録した貴重な資料としての乾板の価値を伝えてはいたが、そこに刻まれた傑出した映像について、そして希代の写真家 "横内勝司" を伝えたものとは思えなかった。

 

 

そして 〜時を超えて〜

 

彼の作品展をやりましょう!何度も横内家を訪ねるうちに、僕がそう思い始めたのはとても自然なことだった。彼の作品が長い長い沈黙の時を経て、そして "今" 僕と出逢ったことに、偶然ではない、なにか大きな意志のようなものさえ感じている。"横内勝司"を伝えることは、今を生きる僕に与えられた役割なのかもしれない。その想いに突き動かされるように、膨大なガラス乾板のデータ化と修復作業が始まった。写真展の実現に向けて、趣旨に賛同してくれた高野・橋坂両氏の協力を得て、共にこのプロジェクトを進めてきた。撮影当時のエピソードをその鮮明な記憶で語ってくれた長男の横内祐一郎氏、屋根裏からガラス乾板を発見してくれた孫の横内照治氏はじめ、ご理解とご協力をいただいた横内家の方々には心から感謝いたします。

 

 

僕たちは何度も写真を囲み、それぞれの視点から”横内勝司”を想った。様々な撮影技法や暗室技術にチャレンジした旺盛な好奇心と研究心、型にハマらない自由な発想と遊び心など、残された写真からは実に多くの彼の意思が読み取れる。仕事を終えると、スーツに着替えて出かけていったお洒落な一面もあったという。農家の長男という立場にありながら、高価なカメラで、何でもない日常を撮り歩く姿は、周囲の目にどう映っただろうか?

趣味や芸術に理解があった時代とは思えない。だが、彼は仕事もしないで写真に熱中していたわけではない。それは残された写真に、農繁期に撮影されたものが極端に少ないことや、特徴的な山岳写真からも想像できる。山に長く留まり、千載一遇のシャッターチャンスを待つという、その後の多くの山岳写真とは異なり、人物の点景で山のスケール感を表現するその手法からは、限られた時間の中で、今そこにいる一瞬を写し留めようとする彼の姿勢が伺える。農業との両立という時間的な制約を受けたことが、かえって日常を切り撮る「スナップ写真」という独自の撮影スタイルを創ることに繋がったのかとも想像する。重い機材を担いでアルプスの岩稜に登り、零下20度の樹氷林をスキーで行くことが、どれほど過酷であったかは容易に想像がつく。ダンディーな容姿に似合わないその体力も日頃の野良仕事で培ったものだろう。暗室に入ると、食事もとらず作業に没頭し、いつ寝ていたのか不思議だったという。農家であり、アマチュアであるという様々な制約の中で、想像を超えるエネルギーで身体を酷使し、命を削るように写真に取り組んでいたことが彼の作品からは見て取れる。だから早く死んでしまったと、祐一郎氏は言うが、その通りかも知れない。でも彼は幸せだったに違いない。カメラという魔法の箱を手にしてからの数年間で、彼は人の一生分を生き、そしてその証を残した。

 

 

写真には

写されたものの外観と共に、写した人の内面が写る。

それを辿り、そして想うことで80年の時をも超えて

横内勝司という写真家に、僕たちは出逢った。

 

出逢えた奇跡、そして写真の力に

驚きと感謝を込めて…

  

                                      

                                     写真家 石田道行

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