写真工房 道
戦前・戦中・戦後の写真
1930年代に中国との戦争が始まると、大東亜共栄圏に向けて日本がいかに強く近代的な
国家であるかという対外宣伝のためのグラフ誌が多く発行された。参加した当時の写真
家はみな近代的な都市や鉄道、工場など先進的なものにレンズを向け、やがて戦局が厳
しくなると今度は国内向けに、戦時下の国民のあり方や兵士の奮闘ぶりなどが伝えられ
国民を戦争に総動員するためのプロパガンダの役割を担うことになる。もちろんすべて
演出によるヤラセ写真です。そして敗戦後は GHQ 指導の下、掌を返したような親米雑
誌に変貌していくことになります。それらすべてに関わったのが後にスナップの神様と
崇められる大御所や、ヤラセ写真の反動からかリアリズムを提唱することになる大御所
たちです。軍部の意向に逆らうことはできず半ば強制的、やむを得ずということなので
しょうが、結果的に多くの国民を戦地へ送るプロパガンダに加担することになります。
芸術家としてそれに屈せず筆を折った画家や反戦思想の非国民として投獄された芸術家
の話を聞いたことがありますが、もしかしたらそんな写真家がいたかもしれない、そし
て名を残すことなく歴史から消されてるのかも…なんて想像もしてしまいます。
貧乏な画家はいても貧乏な写真家はいない。もともと裕福な育ちの当初の写真家たちは
経済社会との親和性も高く、後に広告や出版と結びつき確固たる地位を築いていきます。
作品に信仰や平和への祈りを込め、常に権力による弾圧と戦ってきた本物の芸術家たち、
例えば絵画の歴史との思想の違い。そのあたりが写真の芸術としての評価の低さなのか
もしれません。
話が逸れましたが、横内勝司が亡くなったのが1936年。中国との戦争は泥沼化し、国内
では二・二六事件が勃発。日本を取り巻く国際情勢は悪化の一途を辿ります。二年後に
は国家総動員法が施行され、横内家自慢の鉄製の門も、撮影に使用したリアカーや長男
祐一郎少年の三輪車も供出させられたと聞きます。もしも横内が生きていたとしても、
時代の流れに抗えたとは思えません。しかし、彼の遺した写真の数々は前述した写真と
は明らかに違うものです。以前開催した写真展で、横内が撮影した兵士の写真を見つめ
ていた白髪の老紳士は「これは横内さんの反戦の意思表示だ。口にできない想いを作品
で表現した横内勝司こそが本物の芸術家だ」と言って涙を拭った。全く同感です。
戦争が激化する直前に横内は死んだ。もしも生きて戦後を迎え、ライカを手にしていた
なら…彼が構想した広告写真が生かされる時代を迎えていたなら…
33歳の若さでこの世を去ったことは悔やまれますが、大好きな写真で若者を戦地へ送る
プロパガンダに加担することなく、弟たちの出征写真を撮ることもなく、平和な日常が
壊れていくのを見ることもなく、日常を愛し、アルプスの山々を愛し、素晴らしい写真
だけを遺して逝った彼は幸せだったかもしれないし、僕たちはそれを辿ることで横内勝
司を知ることができる。なにより僕にとって横内勝司は永遠の天才写真家なのです。